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大阪高等裁判所 昭和48年(う)135号 判決

主文

原判決中被告人に関する部分を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人島秀一および弁護人上辻敏夫作成の各控訴趣意書記載のとおりであるから、これらを引用する。

弁護人島秀一の控訴趣意第三点並びに弁護人上辻敏夫の控訴趣意第二点について

各論旨は、いずれも任意性を欠く被告人の検察官に対する昭和四六年一一月二九日付供述調書を罪証に供した原判決には訴訟手続の法令違反がある、と主張するものである。

しかしながら、記録を精査すると、所論指摘の被告人の検察官に対する供述調書は、検察事務官である原審証人植田進の証言に徴し、所論のような任意性に欠ける疑いは存しない。もっとも、右植田証人も証言するように、被告人は本件事故についてはいったん検察官から不起訴処分の裁定を受けていたものであり、被告人が本件事故についての大西邦雄に対する第五回公判に証人として出廷し、本件当日同人らにおいて、原判示C列の客席を除去しないで、オーケストラピットをせり舞台として使用することを知っていて、これを容認した趣旨の証言をした後、検察官から再度取調を受けて所論指摘の検察官供述調書が作成されるに至った経緯が認められ、被告人としては右供述調書作成の際、証人として宣誓した証言内容に事実上拘束を感じたことは十分推察されるところであるから、右供述調書の信用性は他の証拠に照らし、慎重に検討する必要があるけれども、右のような事情があるからといって、右供述調書の任意性を直ちに否定することはできないのであり、他にこれを疑うべき資料は見出せない。

なお上辻弁護人の論旨は、原審相被告人大西邦雄の第五回公判調書中の証人田中次郎の供述部分は、その内容が一貫せずあいまいなものであり、また他の者の公判において宣誓を命じられてなされたものであるから、有罪認定の厳格な証拠とすることはできないのに、これを被告人の罪証に供した原判決には、刑事訴訟法三一七条に違反し証拠能力のない証拠を罪証に供した違法があると主張するけれども、被告人の証人としての右供述部分の証拠能力を所論のような理由によって否定することはできず、右主張は同弁護人の独自の見解に基づくものであるから採用できない。論旨はいずれも理由がない。

弁護人島秀一の控訴趣意第一点および第二点並びに弁護人上辻敏夫の控訴趣意第一点について

論旨は、要するに被告人には原判示の如き過失はないといって、事実誤認ないし法令解釈の誤りまたは審理不尽を主張するのである。

よって、所論にかんがみ、記録を精査し、被告人について原審および当審において取調べたすべての証拠を検討して次のとおり判断する。

まず、被告人は、昭和四三年五月一日原判示奈良県文化会館館長に就任し、同年六月一日同会館の開館以後同会館の安全管理をふくむ運営全般を統括する業務に従事していたこと、昭和四四年七月二六日同会館内大ホール(以下単に大ホールという)において奈良軽音楽協会主催の演奏会「ライトミュージックインナラ」が開演され、その開演中同日午後七時四〇分ごろ、舞台前面のせり舞台として使用していたオーケストラピットが下降を開始した際、最前列客席のC列ほぼ中央の客席二五番に着席して観賞中の松岡進(当時二六年)が、たまたまその左足先をオーケストラピットの客側の側壁下部にある帯状の装飾溝(高さ約一〇センチメートル深さ約三センチメートルのくぼみ)に入れていたため、その左足先を下降するオーケストラピットの右側壁の装飾溝と客席床面との間に挾み込まれ、その結果同人が加療約一ヶ月を要する左第一、第二、第三趾挫滅創を負うたことは証拠上明らかである。

そして、右事故の原因について考察すると、≪証拠省略≫によると、前記オーケストラピット(面積五六・三平方メートル)は、大ホールの舞台前面に設けられ、本来は、客席床面より二メートル下げて固定し、オーケストラボックスとして使用するものであるが、これを客席床面と同一平面に上げて固定し客席の一部として使用することもできるし、またそれより九八・八センチメートル上げて舞台面と同じ高さに固定し、舞台の一部として使用することもできるように設計され、右の昇降は電動ボタンにより操作されるので、開演中せり舞台としても使用できるようになっていたこと、大ホールの観客席は、右の如くオーケストラピットを客席とする場合、その上に設けられるA列、B列の客席五二席を含め、C列以下順次X列までの階下にある九六六席と後方一部二階になった部分にある四四二席とからなり、合計一四〇二席が設けられているが、オーケストラピットをオーケストラボックスや舞台として使用する場合には、その上に位置するA列、B列の客席とこれに接するC列の客席の合計八二席を取除くようにするため、右A、B、C各列の客席はその余の列の客席が固定されているのと異なり移動客席となっていたこと、右の如くオーケストラピットの上に位置するA、B各列の客席のみならず、これに接するC列の客席まで取除くこととしているのは、奈良市火災予防条例により、火災発生の場合の避難路を確保するため客席の最前部に幅一メートル以上の横通路を保有することが要求されているためであるが、同会館では、開館後オーケストラピットを客席とする場合以外の使用方法の時はすべてA、B、C各列の客席を取除くことにし、その際オーケストラピットの手前の客席との間にロープを張って、観客の転落等の危険防止を図って来たが、昭和四三年一一月二七日右の危険防止のためと、オーケストラピットを客席床面より下げてオーケストラボックスとして使用する場合に、オーケストラ演奏者の楽譜を見るための照明が観客の目に入って舞台を見る妨げとならないように、右照明を遮断するための目的で、ロープに代えてオーケストラピットの前面一帯に鉄製支柱一六本に木製板一五枚をはめこんだ高さ約一メートルの防護柵を設けたが、右防護柵は、C列の客席の前に位置し、オーケストラピットを舞台面の高さに上昇させた場合、その客席側の側壁に接着する形になっており、これとC列の客席との間には約三二センチメートルの間隔しかなく、しかも防護柵の下部は客席床面より約一〇センチメートルの高さにわたって空間となっているから、もしC列の客席を存置した場合その客席の観客が着席のまま足をのばすと、右防護柵下部の空間から前記オーケストラピットの側壁に達し、その側壁下部にある客席床面から高さ約一〇センチメートル、深さ約三センチメートルの帯状の装飾溝にのばした足の爪先が入りこみ、本件のように開演中オーケストラピットをせり舞台として使用する場合には、その下降時に前記被害者のように、観客の足先を客席床面との間に挾みこむ危険がある状況であったことが認められる。

ところが、本件演奏会の場合オーケストラピットをせり舞台として使用し、開演中昇降させることになったが、そのことについては、同会館施設課ホール係長木本甚三、同ホール係技術職員大西邦雄が主催者側の代表者大森陽一との打ち合わせによりあらかじめ取り決めていたのに、当日右木本係長が出張不在のためホール係員として、大ホールの運営について当面の責任者であった大西邦雄が前記のような危険を認識しないで、特に上司に相談することもなく、C列の客席を除去しないで、これを観客に使用させたために本件事故が発生したことが認められる。

そこで、奈良県文化会館の館長として、大ホール等同会館の施設の安全管理を含む同会館の運営全般を統括する業務に従事している被告人に、本件事故の過失責任が認められるかどうかについて検討を加えることとする。

ところで、原判決は、この点に関し、被告人に対して、危険の発生を未然に防止するため、(一)オーケストラピットをすり舞台として使用することを禁ずるか、(二)前記防護柵下部の空間を資材で補てんし、(三)前記C列の客席を除去するなどの措置をとるべき業務上の注意義務を課し、被告人が右注意義務を怠り、オーケストラピットをせり舞台として使用することを認め、前記防護柵下部の空間を補てんする措置をとらず、前記大西邦雄が前記C列の客席を存置したまま観客に使用させる措置をとるのを容認したものと認め、この点に過失があると認定している。なるほど、右(一)、(二)、(三)の各措置は、そのいずれか一つがとられていたならば、本件事故発生はなかったものと認められる。しかしながら、前記認定の如きオーケストラピットの構造、これと観客席との関係や防護柵設置の経緯、防護柵の構造、本件事故の態様等の事情に照らして考えると、本件事故の原因は、前記の如くオーケストラピットをせり舞台として使用する場合であるのに、C列の客席を除去しないで観客に使用させたことに求めるべきであり、本件においては開演にあたりC列の客席を除去すれば、他の措置をとることなく本件事故の発生を回避することができたものであって、原判決が被告人に対し、右(三)の措置をとるべき義務と選択的にせよ(一)(二)の措置をとるべき業務上の注意義務を課したのは相当ではない。すなわち、オーケストラピットは、もともと前記の如くこれをせり舞台として使用できるように設計されているものであり、右の如き使用には本件事故とは別に一般的に転落等の危険がともなうものではあるが、これに対しては防護柵の設置等の安全措置や対策が一応とられているものと認められ、本件の如き態様の事故発生の危険性は、C列の客席の存置を前提としてはじめて考えられることであるから、右前提を離れて本件事故発生の予見可能性はないものというべく、C列の客席除去の点とは別にオーケストラピットをせり舞台として使用することを禁止する措置をとるべき具体的根拠は存在しないのである。そして、前記防護柵は奈良県営繕課において、その職員の監督の下に建築専門業者の手によって前記奈良市火災予防条例の規定に基づき、C列の客席を除去することを前提にして設計施工されたものであって、右防護柵の下部に前記の如き空間があることは、右前提の下では設備に欠陥があるものということができないから、本件においてはC列の客席除去ということを離れて、右防護柵下部空間を補てんするべき義務を課するのは相当ではない。

したがって、本件事故の過失の有無は、上辻弁護人指摘のようにC列の客席を除去しなかったことにつき、刑事上の責任が認められるかどうかにあるものということができるが、被告人についてこれをみると、被告人は前記の如く奈良県文化会館の館長として、同会館の施設の安全管理を含めた同会館の運営を統括する地位にあり、業務課、施設課に分属する二六、七人の職員を指揮監督し、右各課にはそれぞれ課長、課長補佐、係長が置かれ、本件事故に関係のあるホール係は施設課に属するが、ホールの運営はオーケストラピットをせり舞台として使用させるかどうかを含めて事実上ホール係長木本甚三と係員大西邦雄に委かされ、被告人は施設課長を通じて右ホール係の事務を指揮監督する職責を有していたものと認められる。したがって、本件事故の直接の責任者は前記の如く本件当日、オーケストラピットをせり舞台として使用することになっているのにC列の客席を除去する措置をとらなかった原審相被告人大西邦雄にあると認めるのが相当であり、被告人が、もし原判示の如く本件当日の開演にあたり、ホール係員がC列の客席を取除かず、これを存置してこれを観客に使用させる措置をとることを知りながらこれを容認したものであるならば、被告人もその点において過失の責任を免れることはできないものと解せられる。右の見地から、各証拠を検討すると、右事実に関し、被告人は、原判決挙示の被告人の検察官に対する昭和四六年一一月二九日付供述調書と原審相被告人大西邦雄に対する第五回公判調書中の被告人の証人としての証言において、これを肯認する趣旨の供述をしているのであるが、昭和四五年一一月九日付検察官に対する供述調書においては、本件当日前記C列の客席を除去しないでオーケストラピットをせり舞台として使用することについてはなんら報告を受けなかったので、被告人としては本件事故があって始めてオーケストラピットの右のような使用方法を知ったと供述し、原審および当審公判廷においても、オーケストラピットを客席として使用する以外の場合には、すべて前記の如く奈良市火災予防条例の規定によりC列の客席を除去する建前であって、本件当日C列の客席を存置していることについては報告を受けず、これを容認した事実はない旨、弁解しているのみならず、前記の如くホールの運営を事実上委かされていたホール係長木本甚三やホール係員大西邦雄が、直接の上司である施設課長に対してすら右の報告をした事実を認める証拠もないから、右弁解をたやすく排斥することはできない。もっとも、当審証人福岡善右ヱ門の証言でも明らかなように、前記の如く防護柵が設置された後においても、オーケストラピットを客席として使用する場合以外はC列の客席を除くことが会館の方針であったが、この方針に反しC列の客席を存置したまま開演した事実が二回あることが認められるが、前記の如く被告人がホール運営を事実上ホール係員に委かせていたため右事実も知らなかったということは、一般公衆の安全に関することであるだけに会館の行政上の最高責任者として遺憾なことであり、この点につき被告人は、行政上の監督責任を免れないものとしても、だからといって前記の如きホール運営の実状に照らせば、右事実も知らなかったという被告人の弁解を排斥することはできない。そして、前記の如く防護柵設置後は、少なくとも転落の危険に対する防止はできたものとみられるから、これに安心してC列の客席の除去の建前がくずれて来たのを知りながら容認していたという趣旨の供述をする被告人の前記大西邦雄についての第五回公判における証言も行政上の監督責任者としての立場から同人の責任軽減を配慮したうえの供述であると受けとれないこともないし、右証言や同証言後の前記被告人の検察官に対する供述調書中のC列の客席を除去しないことを容認していたという被告人の供述は、前記福岡証言に徴したやすく措信できない。他に被告人の前記弁解を排斥して、被告人が本件当日オーケストラピットをせり舞台として使用するにつきC列の客席を除去しないで観客を着席させることを容認したものと認めるに足る証拠がないから、本件については結局犯罪の証明はないことになる。されば原判決は事実の認定を誤り、誤った事実認定に基づき被告人に対し過失の責任を認めたものであって、判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決は他の控訴趣意に対する判断をまつまでもなく破棄を免れない。論旨は理由がある。

よって、弁護人上辻敏夫の控訴趣意第三点に対する判断を省略して刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決中被告人に関する部分を破棄し、同法四〇〇条但書により、当裁判所においてさらに次のとおり判決をすることとする。

本件公訴事実は「被告人は、奈良市登大路町所在奈良県文化会館館長として同会館施設の安全管理をふくむ同会館の運営全般を統括する業務に従事していたものであるところ、昭和四四年七月二六日同会館において、奈良軽音楽協会主催演奏会「ライトミュージックインナラ」が開演されるにあたり、同会館舞台前面のオーケストラピットの客席側の側壁に接して設置されている防護柵(高さ約一メートル)と最前列客席のC列との間には三〇センチメートル余りの間隔しかなく、しかも同柵の下部は客席床面より約一〇センチメートルの高さにわたって空間となっていて、観客が客席から足をのばして同柵の下部空間に足先を突込むにおいては、オーケストラピットの側壁には帯状の装飾溝があるところから、オーケストラピットの昇降時に足先を挾み込まれる危険があったのであるから、被告人としてはオーケストラピットをセリ舞台として使用することを禁ずるか、前記柵下部の空間を資材で補てんし、前記C列の客席を除去するなどの措置をとり、もって危険の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるにもかかわらず、不注意にもこれを全く怠ってオーケストラピットをセリ舞台として使用することを認め、かつ前記柵下部の空間を補てんせず、同会館ホール係員の大西邦雄が前記C列の客席を存置したまま観客に使用させる措置をとるのを容認した過失により、同日午後七時四〇分ころ、セリ舞台として使用していたオーケストラピットが下降を開始した際、前記C列の客席二五番に着席して、足先を前記防護柵の下部に入れて観賞中の松岡進(当二六年)の左足先を、下降するオーケストラピットの側壁の装飾溝のくぼみと客席床面との間に挾み込み、よって同人に対し加療約一ヶ月を要する左第一、第二、第三趾挫滅創を負わせたものである」というのであるが、前記の如く、右事実について犯罪の証明がないので、刑事訴訟法四〇四条、三三六条により被告人に対し無罪の言渡をすることとして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 細江秀雄 裁判官 八木直道 岡次郎)

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